「岐阜」の字、発祥の場所

塔頭(たっちゅう)の 案内

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塔頭(たっちゅう)は、禅宗寺院で、祖師や門徒高僧の死後その弟子が師の徳を慕い、大寺・名刹に寄り添って建てた塔(多くは祖師や高僧の墓塔)や庵などの小院。門徒らによって立ち並ぶ塔の中でも首座に置かれたこと、あるいは、門徒らが塔のほとり(=「頭」)で守ったことから塔頭と呼ばれた。
(「塔頭」Wikipediaから抜粋)

塔頭系図

瑞龍寺境内の塔頭は、悟渓国師により開山され、現在は6ヶ寺あります。
以下の系図は、悟渓国師により開山された6ヶ寺の系図です。

 

 

雲龍院(うんりょういん)

神仏分離の風潮に乗らず、いまでも寺院内に正一位稲荷大明神が祀まつられている。
美濃新四国八十八ヶ所霊場の第十四番札所。

 

臥雲院(がうんいん)

悟渓宗頓の法孫、関市津保の天祥寺の燈外宗普により徳隣院として天正8年(1580年)ごろに開かれる。慶長14年(1609年)に現在地に移転し、臥雲院と改称した。境内には土岐政房の後室の墓と伝えられる「貞室祥 臻禅尼、明応七戊午正月一日」銘の連結五輪塔、江戸時代後期の画家の高橋杏村「老人高九鴻 居士」の石碑がある。1872年(明治5年)に上加納村民の依頼で院内に「徹明塾」を開校。岐阜市立徹明小学校の創設の地でもある。

開善院(かいぜんいん)

斎藤妙椿の菩提寺として悟渓国師により開山された。狩野常耀の妙椿公画像(岐阜市重要文化財)を所蔵している。表千家茶道教室を行っている。

鶴棲院(かくせいいん)

中興の祖、隠山禅師が遷化された(お亡くなりになった)場所。岐阜市史跡の墓がある。隠山禅師の頃より茶道の松尾家との縁が続き、茶道教室を行っている。

 

天澤院(てんたくいん)

悟渓国師により創設された。明治時代まではここが雲水の修行道場であった。令和元年、日本画家・長谷川喜久氏による「双龍図」が収められた。

 

瑞雲院(ずいうんいん)

悟渓国師の九哲の一人、天縦宗受が開山。現在まで十九代に渡り法灯を守り続けている。近くで採取した植物を使った草木染めの教室を開いている。

ホームページ:https://zuiun-in.jp/

岐阜てらまちガイド事務局 TEL :058-245-5737

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寺町の歴史

200年頃 弥生時代
この辺を支配していた王がいた

680年頃 飛鳥時代
厚見寺と呼ばれるお寺があった

1462年 応仁2年
斎藤妙椿が、美濃国守護・土岐成頼の菩提所として建立し、悟渓宗頓国師を迎えて開山

1567年 永禄10年
織田信長の稲葉山城攻めの際、焼失する

1600年 慶長5年
福島正則・池田輝政らによる岐阜城の戦いにて焼失する

1747年 延享4年
輪番制が途絶え、一時荒廃する

1806年 文化3年
隠山禅師により中興される

1870頃 明治3年頃
廃仏毀釈で、十数ヵ寺が六ヵ寺に減少、橿森神社が現在の場所へ独立する

1891年 明治24年
濃尾地震の被害にあう

1945年 昭和20年
岐阜大空襲により、二ヵ寺を残し全山焼失する

1992年 平成4年
現在の本堂の改築が完成
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